奈良県橿原市今井町とは?
奈良県橿原市にある今井町は、16世紀中ごろに生まれた歴史の深い町です。
現在でも江戸時代の木造の家々がたくさん残っており、まるで昔にタイムスリップしたような町並みを見ることができます。
今井町の町並みは、歴史的な風景をつくり出す伝統的な建造物群の中でも特に価値が高いとされ、平成5年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
全建物戸数約760戸のうち約500件の伝統的建造物が現存しており、この数は日本一を誇ります。
また、町内には国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件もあり、歴史と文化の宝庫といえる場所です。
これらの家々は、当時の地元の木材を用い職人たちの高度な技術で建てられたもので、地域の風土や自然、歴史を色濃く反映しています。
今井町の歩み
今井町の起こりは、天文年間(1532〜1555)にさかのぼります。このころ、本願寺の僧・今井兵部によって「称念寺(しょうねんじ)」というお寺が建てられました。
今井町の名前の由来ともなったこのお寺を中心に、農民たちを門徒として迎え入れ、一向宗の布教の拠点としたのが町の始まりです。
やがてこの地には、諸国の浪人や商人たちも集まるようになり、町が次第に形成されていきました。(寺内町と呼ぶ)
今井町が商業の町として栄えた理由
今井町が一気に商業で発展したのは、織田信長との「和睦」が大きなきっかけです。
当時、織田信長は天下統一をめざして各地で一向宗と対立していました。
今井町も防備を固め徹底抗戦の構えを見せていましたが、本願寺の降伏を機に、交流の深かった堺の豪商や明智光秀のとりなしにより、武装を放棄。これを機に、町は大きく発展していくことになります。
天正3年(1575年)、明智光秀や堺の豪商で茶人だった津田宗及(つだそうきゅう)の仲介を得て、今井町は織田信長との和睦を結びました。
これにより、今井町は砦のような防御施設を残す代わりに、攻められることなく町の自治を保障されたのです。
信長は和睦後に今井町を自治都市として正式に認め、今井町は堺と並ぶ自主的な商業自治都市として発展。町には「惣年寄」や「町年寄」といった役職が置かれ、警察権なども与えられました。
自治都市としてのしくみ
今井町は、町全体を自らの手で治める「自治都市」としての特徴を持っています。
町は三重にめぐらされた堀と、番屋のある9つの門によって厳重に囲まれていました。
この構造により、町に出入りするには門を通る必要があり、外部からの侵入や犯罪を未然に防ぐしくみが整っていたのです。
さらに町の内部では、通りがあえて直線ではなく曲がりくねった「筋違い」という設計になっていました。
これは戦国時代に野武士や盗賊、異なる宗派の勢力などからの攻撃を防ぐために考えられた防御策で、町を守るための知恵が随所に生かされていたことがわかります。
こうした防御の工夫とともに、今井町には独自の自治制度も築かれていました。
町の代表として「惣年寄」が置かれ、その下に町年寄などが町政を担っていました。
彼らは町の運営や規律の維持を担い、役所や武士に頼ることなく、町の中のことは町自身で決めて解決するという自立した体制が整っていたのです。
とくに「今西家」は惣年寄の筆頭として長く町政の中心を担い、今井町の自治を支えてきた家として知られています。
商業都市へと成長した今井町
町を自ら守り運営する体制を整えた今井町はその後さまざまな産業が発展し、日本でも指折りの商業都市へと成長しました。
綿や絹の布づくりや、酒・醤油・味噌などの加工品の生産が活気づき、人々の生活に欠かせない役割を果たしていったのです。
さらに1634年には独自の通貨「今井札」が発行され、およそ74年間にわたって使用されました。
両替や融資などの金融サービスも商人たちによって行われており、江戸時代の今井町がいかに信用されていたかがうかがえます。
今井町の経済力は「今井千軒」と呼ばれるほどで、「大和の金は今井に七分」といった言葉でも表現されるほどでした。
今井町のいま
現在の今井町には、旧家として知られる今西家や豊田家などがそのままの姿で残されており、彼らの先祖が町の発展や保存に尽力してきた歴史を学ぶことができます。
「旧米谷家住宅」では、平成10年ごろから約2年をかけて建物を一度解体し、当時の姿に復元する工事が行われました。
こうした丁寧な取り組みによって、今も町の景観が守られています。
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